「綺麗な髪やね、写真撮っていい?」
会社を辞め、2年ぶりに大好きなアッシュ色に染めた私の髪を眺めて、母はそう言った。
テレビを見ながら「いいよ」と返事をすると、背後でカシャ、とカメラの音がする。
そのあと、母は嬉しそうに呟いた。
「私のかわいい娘」
両親は私が3歳、弟が0歳のときに離婚した。
母は私たちを連れて実家に戻り、祖母と祖父と曽祖父と共に暮らすこととなる。
母はよく、私たちのことを抱きしめてくれた。
どういうタイミングだったのかは分からないが、「ぎゅうしてあげるからおいで」と、度々言っていたのを覚えている。
母に抱きしめてもらうと安心することに気が付いた幼い私は、自分からも「ぎゅうして」とせがむようになった。
父と離婚しなくても、母が私たちを抱きしめる習慣はできていたかもしれない。
けれど、そうであってもこんなに頻繁ではなかったかもしれないとも思う。
「お父さんと一緒に生活していない」というのは、私の中ではコンプレックスでもなんでもなかった。
恥ずかしいなんて一度も思ったことがないし、その事実を口にするのをためらったこともない。
母は、そのことでいじめられたら…ととても心配していたようだが、幸いそんなことでいじめてくるようなおかしな奴も周囲にはいなかった。
私にとって、父は“非日常の人”だった。年に数回、“面会日”なる日があり、私と弟を遊びに連れて行ってくれるからだ。
その上父は、私たち2人分の養育費と専門学校までの学費をずっと払ってくれていた。
これは世間一般に言わせると「今時珍しい、良いお父さん」なのだそう。
私にとってはそれが当たり前だったが、周りがあまりにも口を揃えてそう言うので、最近やっと「私のお父さんは良いお父さん」だということを自覚した。
お金の面はもちろんだが、離婚後も私たちに愛情を注いでくれたことに心から感謝している。
反対に、日常生活の中で“お父さん”だったのは母方の祖父だ。
祖父は若い頃に修行を積んで大工になり、工務店を開いて祖母と一緒に切り盛りしていた。
幼い私と弟の遊び道具はいつもカナヅチで、その辺に転がっている木材に釘を打ったり抜いたりして育った。(今でもカナヅチを握れば釘をまっすぐ打てる自信がある。)
4年前に癌で他界した祖父には、釘の打ち方だけでなく、人間が生きることから死ぬことまでを教えてもらった。
私にとって「人生の先輩」は前職場のボスだが、祖父は「人間の先輩」だと言える。
こうして私たち姉弟は、母、祖父、祖母、曽祖父、そして会う頻度は少なかったが実の父親に、たくさんの愛を与えられながら成長した。
少し前に友人に指摘されたことでわかったのだが、うちの家族は他よりも家族内の愛が強いらしい。意味はどうであれ、私はこの異常だと言われる家族愛を誇らしく思っている。
こうした過去があった上で、母のあのつぶやきを聞いたとき、私はこの世で一番、他の誰よりも家族に愛されて育ったのだと本気で思った。
「やると決めたら誰に何を言われてもやる」という私の性格を知っているあなたは、私がこれから先、人生においてどんな選択をしようとも止めはしないだろう。
ひとつだけ覚えておいて。
あなたの「かわいい娘」は、いつかあなたの「一番の誇り」になりたいと思っている。
あなたの恥になるような選択は絶対にしない。
だから、これからも見守っていてください。
私の髪が綺麗に染まってるからと言ってうしろから写真を撮った母。
その写真を見て「私のかわいい娘」と嬉しそうに呟いた。
この人のところに生まれてきて本当によかったと思えるのは、母がこれまで愛をたくさん与えて育ててきてくれたから。
私もいつか母みたいな母になりたい。— 安田ケリー@旅ブロガー (@_YzWorld) 2018年5月11日
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